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丸勘商店 みちのく岩手路 つとっこ便り
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丸勘商店のあゆみ

地元 盛岡タイムス社より平成 9 年に刊行された『盛岡の老舗 U』に丸勘商店の創業にまつわるエピソードが紹介されました。(ここに掲載の許可を頂き、本文のみ、全文をご紹介いたします。※許可を得て、漢数字を英数表示にする等、一部表記を替えてあります。なお、本ページ掲載画像はすべて丸勘商店にて用意したものです。)

納豆製造法本

株式会社 丸勘商店

大正十年創業。盛岡高等農林学校の村松舜祐博士が納豆菌を発見したことがきっかけとなり勘之助は納豆作りを始めた。村松博士のアドバイスを受けながら納豆の品質確保に 努めていた。現在は納豆を主力商品とし、緑豆モヤシ、めん類を中心とした食品メーカーとなっている。

右写真は、昭和25年(1950年)に発行された【納豆製造法】。
右写真の拡大画像を見る

納豆作りを企業化した勘之助

丸勘商店(本社・ 松尾村 、村上智恵子代表取締役)は大正10年の創業。近代的な納豆製造の草分け。

納豆

盛岡納豆(→右写真参照 ※文献【納豆製造法】より)はすっかり浸透し、市民の食生活に欠かせない商品となっている。村上家の商売は 紫波町 志和地区の上平沢商店街で雑貨屋を開いたのが始まり。雑貨屋の創業は明治初期ごろと思われ、村上勘之助の代になって雑貨屋を畳んで盛岡に出てきた。この勘之助が納豆作りを企業化し、丸勘商店を創業した。

勘之助は明治37年の生まれ。盛岡に出てきたのは大正6、7年ごろと思われ、 仙北町 の店舗を借りて商売を始めた。最初は当時では珍しかったバナナの色付けをし、地下の室に入れて青いバナナを黄色い色にして出荷していた。

盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)では村松舜祐博士が納豆菌を発見し、安定して製造できることを証明。これを企業化する段階で、勘之助が協力を申し出、納豆作りを手掛けた。

経営が軌道に乗ったバナナの色付けをやめ、実用化が証明されたとはいっても、まだ見通しが立たない納豆製造へ大転換をしたのは、輸送ルートの関係からバナナが手に入らなくなり、室を利用した商売はないかと考えたのがきっかけだった。

村松博士 納豆菌が発見されるまで、納豆作りは煮た豆をわら苞(つと)に入れて室で発酵させていたが、わらから出る菌(粘り気を出す、いわゆる納豆菌)の付き具合が温度によって異なることから、発酵が一定せず、作るのが非常に難しかった。

このため失敗の連続で、辛うじてできたわずかの納豆を売っていたのが当時の納豆屋の状況。そうした納豆作りの量産を可能にしたのが村松博士(←左写真参照)の納豆菌で、画期的な発見だった。

納豆菌を使った納豆作りは煮た大豆に蒸留水と混ぜ合わせた納豆菌を入れてかくはん、それをわら苞に入れる。これを室の中で一昼夜発酵させると納豆が出来上がる。

納豆当時の苞は一本が 1.5s 入りという丸太棒のような大きなもの。一日に売る量は2、3俵(120s から 150s)程度で、これを毎朝子供たちに卸し、盛岡中を売り歩いて回った。
(→右写真参照)

苞が一本あれば、大家族でも十分に食べることができ、盛岡納豆は市民の食卓に欠かせないものになっていった。

勘之助は納豆の品質確保のため、たびたび村松博士のいる盛岡高等農林学校を訪れ相談し、博士のアドバイスする設備投資を惜しまずに行い、納豆自体の改良にも取り組み、納豆の企業化に力を注いだ。産学共同研究の先駆けと言えそうだ。

 
わら苞から木の折り箱へ

納豆の容器は、最初は昔ながらのわら苞だったが、詰めにくいことから勘之助は木の折箱に入れることを考えた。
納豆納豆菌をかけているのだからわらを容器に使わなくても納豆が作れるという発想の転換と衛生面を考えてのことで、これから現在の簡易パッケージに発展している。

納豆を入れる折り箱はなかったようで、そのため機械を購入して木に板を折り曲げるところからびょう打ちまで自動化し、自ら作っていた。
(→右写真参照 ※文献【納豆製造法】より)

真四角の折り箱を幾つも並べて、流し込むように一気に豆を入れ、へらでなでて平らにしていく。
(↓下写真参照)
ついで使われたのが経木で納豆をのせて三角に包んでいた。経木は今でも見ることができる。

納豆

納豆は今では年中いつでも食べられるが、当時は冷蔵設備が無かったことから夏場は休止していた。納豆は生き物で、暑い夏場は発酵がどんどん進み、納豆の臭いが強くなるため。当時は7月20日から一ヶ月ほど休業していた。

納豆は子供たちが販売したほか、豆腐屋にも卸していた。消費拡大にはかなり力を注いだようで、村松博士の本によると食べ方も納豆のみそ漬け、納豆のおろしあえ、とろろ納豆、納豆とネギの七味あえ、納豆ライスカレー、納豆オムレツ、納豆サンドイッチ、干し納豆など、大正、昭和初期とは思えない数の料理が紹介されている。

勘之助は昭和20年3月に42歳で急逝 。先見性に優れ、納豆の製品化に力を注ぎ、夜間にたびたび起きては炭火をたいて温度管理するなど、ほとんど寝る間もなかった。

 
戦後は機械化一筋

昭和20年3月に初代が亡くなったが、丸勘二代目の昭二はまだ18歳、代用教員をしばらく続け、納豆作りは初代夫人と長女の二人で支えた。

21年に二代目が継ぎ、人口の増大に合わせて需要も増大していき、生産量を大幅に拡大、そのため各種設備を調えて対応していた。

各種産業の機械設備が一新していた20年代から30年代でも納豆作りの機械化は、豆を煮て、納豆菌をつけるまでで、容器に入れるのは手作業が伴った。お盆すぎから翌年の3月ごろまでに集中し、大変な忙しさだった。

初代は夏場の7月20日すぎから一ヶ月ほど休業していたが、二代目も商売に対する先見性は初代勘之助に負けず、時代の変化に合わせ、空いた設備をアイスキャンデーや麺類を作ったり、冷蔵設備も整い28、9年ごろには夏場でも納豆を少しずつでも作るなど、積極的に事業を展開していった。

夏場のアイスクリームに対する他の季節の商品として、32年からは緑豆モヤシの育成栽培を始めた。

28年からは有限会社になった。 仙北町 の工場が手狭になってくるとともに、衛生面でも重点を置く時代になったことから、将来的に工場を移転するため37年津志田の用地を取得、39年にインスタントラーメンの工場を建設、操業開始したが、この年に二代目が37歳の若さで亡くなり、夫人の智恵子さんが経営を引き継いだ。インスタントラーメン工場は42年まで続け、生めん工場に切り替えた。

40年代から炭火を使っていた温度管理が機械を使って自動的にできるようになったほか、容器も発泡スチロールとなり、これに一定量ずつ豆を入れる機械も導入し人手をかけないで大量の納豆をライン生産できるようになった。

これにより豆腐屋に卸すほか、新たにスーパーマーケットへの卸しも始め、これまで 盛岡市 内が限度だった販売エリアも一気に拡大。

仙北町 の工場が生産量の増大に対応しきれず、同時に工場の老朽化、衛生面の強化を考え、57年には津志田の工場に移転。しかし、ここでの設備増強には規制がかけられていたことから、平成3年に自然環境と水がよい 松尾村 八幡平に再び移転し、永井に配送センターと本部機能を置いた。

現在では納豆、緑豆モヤシ、めん類(盛岡冷麺《れいめん》、中華めん)を中心とした食品メーカーになり、主力商品の納豆は盛岡広域圏を中心に県内、東北各県、北海道まで幅広く販売している。

智恵子さんは「安全でおいしいものを作ることです。これからも納豆作りに研さんを重ねていきます」と経営のモットーと決意を話す。

(平成7年4月9日掲載)

 

平成 8年  株式会社に変更
平成13年  八幡平本社に物流センターも一本化
平成17年  市町村合併により、住所表示が八幡平市となる

 

 


株式会社 丸勘商店 所在地:〒028-7302 岩手県八幡平市松尾寄木12-1-25 / TEL:0195-78-3710 / FAX:0195-78-3883
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